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The Association of Small Business Entrepreneurs in Hokkaido
〜私たちは地域の発展と人間尊重の経営を目指す経営者集団です〜
今月の文学探訪
【 筆者プロフィール 】 

小田島 本有(おだじま もとあり)


昭和32年 札幌市に生まれる。
昭和51年 札幌西高校卒業。
昭和57年 北海道大学文学部卒業
昭和62年 北海道大学大学院文学研究科修士課程修了。
平成 元年 釧路工業高等専門学校着任
令和 5年 釧路工業高等専門学校退職

 現在、釧路工業高等専門学校名誉教授。文芸評論家。専門は日本近代文学。
 地元で公開講座、出前授業、読書会、朗読会など、地域貢献に関わる活動を実践。
 2021年7月より北海道新聞夕刊で「道内文学」創作・評論の執筆を担当。

トップ  >  (172)『或る女』
 有島武郎『或る女』   2019年8月
                小田島 本有

  『或る女』の冒頭では停車場で乗り遅れそうになった早月葉子の姿が描かれている。車夫に「若奥様」と呼ばれ、発車ベルが鳴るなか、改札係に癇癪声で急き立てられたことで「あまのじゃく」になり、それまでの急ぎ足を緩めて堂々と歩く葉子の姿に対して周囲の人々は怪訝な眼差しを送る。葉子は決して動じることがない。彼女は「見られる」ことを十分意識しながら演じることのできる25歳の女性だった。
 彼女は婚約者木村の待つアメリカへ向かうべく絵島丸に乗り込む。この結婚じたい彼女が積極的に望んだものではない。ただ、彼女にとってアメリカは女性が日本に比べて自由に振る舞える、望ましい国だった。だが、船中で彼女は事務長の倉地と出会い、彼の逞しさに抗うことができず深い仲となる。そして舟はシアトルに着き木村が迎えに来たものの、彼女は病気を口実に下船することを頑なに拒否し、彼を巧みに丸め込んで帰国を果たした。このとき倉地との愛欲の世界を獲得し、彼女は幸福の絶頂にあった。
 だが、帰国後彼女は全く異なる状況に置かれる。彼女は気鋭の新聞記者木部と激しい恋の末結婚したものの、ほどなくして彼の元から立ち去ったというスキャンダルを既に抱えていた女性である。そもそも彼女が一時木部と深い仲になったのも、もともと母親の親佐が彼を贔屓にしており、母親への対抗心が木部へと駆り立てたという側面が極めて強かった。そして今回の倉地は妻子持ちであった。帰国後、彼女の行状は新聞で大々的に取り上げられた。葉子はもともと新聞記者になるのが夢だった。その彼女が新聞のネタになったのである。
 倉地は会社から解雇を言い渡され、生活の糧を求めて怪しい事業に乗り出す。一時は予想外の収入があった。妻とは離縁したという倉地の話は葉子の心をひとたびは安堵させるけれども、それも長くは続かない。彼女には16歳の愛子と14歳の貞世という二人の妹がいた。彼女は二人の妹も呼び寄せ一緒に暮らし始めるが、ますます美しさを増してくる妹たち、とりわけ愛子に倉地の関心が向いているのではないかとの疑念に捉われ、その言動は徐々に常軌を逸していく。しだいに彼女は痩せ衰えてもいった。後に彼女は子宮後屈症、子宮内膜症と診断される。やがて倉地はしばらく会えないとの伝言を残し、彼女の前から姿を消す。後に古藤がもたらした情報によると、倉地は軍の機密を売り渡すことをしていて警察に目をつけられていたばかりか、葉子の他に外妾を二人抱えていたということだった。その真偽のほどを今の葉子には確かめる術はない。
 「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった」と後悔の思いがよぎりながら、彼女は手術に向かう。結末における、「痛い痛い痛い……痛い」の叫びはあまりにも痛切である。
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