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The Association of Small Business Entrepreneurs in Hokkaido
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今月の文学探訪
【 筆者プロフィール 】 

小田島 本有(おだじま もとあり)


昭和32年 札幌市に生まれる。
昭和51年 札幌西高校卒業。
昭和57年 北海道大学文学部卒業
昭和62年 北海道大学大学院文学研究科修士課程修了。
平成 元年 釧路工業高等専門学校着任
令和 5年 釧路工業高等専門学校退職

 現在、釧路工業高等専門学校名誉教授。文芸評論家。専門は日本近代文学。
 地元で公開講座、出前授業、読書会、朗読会など、地域貢献に関わる活動を実践。
 2021年7月より北海道新聞夕刊で「道内文学」創作・評論の執筆を担当。

トップ  >  (214)『虚実』
   高見順『虚実』  2023年2月
                小田島 本有

 この作品は冒頭で5年前の追憶が語られる。
 先妻との間に子供が生まれたものの、死産だった。その遺体を蜜柑箱に入れて「私」が火葬場に辿り着き、手続きに手間がかかったうえ、相手が死亡者の名前を尋ねたにもかかわらず「私」が勘違いして自分の名前を答えてしまい、骨壺には自分の名前が書かれてあったことも書き加えられている。もともと「私」は、先妻とは異なり、子供を欲していなかった。骨壺の「高田米吉」の名前は、そのような自分を対象化しているとも言えそうだ。
 先妻は良家の出身で、「ごく善良で平凡な家庭的女性」であった。収監されたこともある「私」はしがない作家で、家計を支えるため先妻は酒場で働かざるを得なかった。そこへ死産が重なり、「私」に愛想を尽かした先妻は「私」から逃げ出した。そのことを恨みに思う「私」は彼女をモデルに「おぞましい女」を造型した小説を発表し話題となったのである。その後、先妻は荒間研介というレヴュー役者と、「私」は別の女性とそれぞれ結婚生活を送っている。
 そこへ、先妻から借金の申し込みが「私」にあった。多少良心の呵責も感じていた「私」は、知り合いの金貸し業者を紹介し、自分も連帯保証人となったが、やがて金貸し業者から借金が返済されないこと、「私」が先妻をモデルにした小説で金を稼いだのだから「私」に払ってほしいと先妻が言い出し、困っていることを聞かされた。これがかなり勝手な理屈であることは言うまでもない。ただ、この時点ではまだ先妻の「善良さ」を信じる思いが「私」には強かった。
 そのイメージの崩壊は、荒間の話によってもたらされる。酒に酔いながら荒間は妻のことを、「あいつはあんたの小説に書いてある通りだ、仕方のない女だ」と語り、妻とは別れたいと言い出す。荒間の話によると、彼女はすっかり変身していた。彼女は夫婦別々の経済生活を主張し、子供もいらないと拒否していたのだ。それでも荒間は妻に対して愛憎半ばする思いがあり、それが彼を悩ませていたのである。
 「私」は先妻と会い、借金は自分が払うこと、荒間とは絶対に別れてはいけないと伝えた。先妻は荒間を完全に子供扱いしていた。そこに「私」は彼女の「荒廃」を見出す。その彼女を「私」は必死に説得する。いつしか二人とも泣き出していた。そこに「私」は希望を見出したのだった。
 ところが、数日後、荒間が妻を締め殺したという新聞記事に「私」は遭遇する。この悲劇はもともと「私」が原因なのではないか。作品のタイトル「虚実」には、「私」が先妻をモデルにして書いた小説が含意されている。先妻はその虚実の境が曖昧模糊となっていくプロセスを経験し、それが悲劇を招いたとも言えるのだ。



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