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The Association of Small Business Entrepreneurs in Hokkaido
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今月の文学探訪

【 筆者プロフィール 】 

小田島 本有(おだじま もとあり)

昭和32年 札幌市に生まれる。
昭和51年 札幌西高校卒業。
昭和57年 北海道大学文学部卒業(国語国文学専攻)
昭和62年 同大学院修士課程修了。
 現在、釧路工業高等専門学校一般教科教授。
 専門は日本近代文学。
 同友会幹部大学で文学の講義を担当している。


トップ  >  (31)『氷点』
 三浦 綾子 『氷点』  2007年11月

                小田島 本有

 周囲から見れば誰もが羨むような家庭の中に潜む暗部を抉り出した作品、それが『氷点』である。殺人犯の娘を養女として引き取りながらも、その事実を妻には隠すという設定そのものが衝撃的であるし、そこに妻への復讐の念があったことを後に知った妻が継子いじめを行うという展開は確かにメロドラマふうな側面があったと言えよう。
 しかし、そのことだけに目を奪われてしまうとこの作品の本質を看過してしまうことになるのではないか。
 啓造には自分を心の底から信頼してくれる高木という親友がいた。彼はかつて夏枝に思いを寄せていたものの、啓造が彼女と結婚すると知って潔く諦めた男である。啓造以外の男なら高木は決して譲る気はないと広言していた。
 殺人犯の娘を引き取るというのは、啓造と高木二人だけが知る秘密であった。通常なら考えもつかないことを申し出た啓造の心には、高木が期待する人間像に応えたいとする、彼なりの潜在的な欲望が渦巻いていたことが想像できよう。
 しかし、いざ陽子を引き取ってから、啓造は現実はそう甘くないことを痛感させられる。<理想とする自分>と<現実の自分>の狭間で常に葛藤する男、それが啓造なのである。社会的信用もある彼は、夏枝と村井の浮気を疑いつつも、それを正面切って問いただすことができない。それが逆に妄想を膨らませ、余計啓造を苦しめることにもなる。実はこのような人物造型は、漱石のとりわけ後期三部作以降の作品ではおなじみである。
 一方の夏枝は、自分の美貌に自信をもっていたし、夫の留守中に村井を呼んで彼に見合い話を持ち出したのも、彼が日頃自分に好意を寄せているらしいということを確認したいという、いわば自己満足的なものだった。深入りするつもりは彼女にはなかったのである。確かにその時間帯に娘のルリ子が殺され、彼女は精神喪失の状態に陥った。だが、彼女は村井と浮気をしたという認識はもっていない。夫になぜここまで恨まれなければならないのか、彼女には納得がいかないのであった。そして、彼女に基本的に反省をする姿勢がないことは、夫と極めて対照的である。
 その夫婦の間で犠牲になったのが陽子であった。いかなるときでも泣き言を言わず、健気に生きる彼女の姿は確かに読者の涙を誘うものがあるかもしれない。しかし、陽子の心の中には、「自分さえ正しくあれば」という思いが絶えずあった。彼女が自らの出生の秘密を知らされ、生きる意欲を失ったのも、結局はそれまで自分を支えていた信念が崩壊したからに他ならない。人間は本来矛盾を抱えた存在である。そのことを頑なに拒もうとしたところに彼女の脆さがあった。
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