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The Association of Small Business Entrepreneurs in Hokkaido
〜私たちは地域の発展と人間尊重の経営を目指す経営者集団です〜
今月の文学探訪
【 筆者プロフィール 】 

小田島 本有(おだじま もとあり)


昭和32年 札幌市に生まれる。
昭和51年 札幌西高校卒業。
昭和57年 北海道大学文学部卒業
昭和62年 北海道大学大学院文学研究科修士課程修了。
平成 元年 釧路工業高等専門学校着任
令和 5年 釧路工業高等専門学校退職

 現在、釧路工業高等専門学校名誉教授。文芸評論家。専門は日本近代文学。
 地元で公開講座、出前授業、読書会、朗読会など、地域貢献に関わる活動を実践。
 2021年7月より北海道新聞夕刊で「道内文学」創作・評論の執筆を担当。

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開高健 『夏の闇』 2013年2月

                小田島 本有

 『夏の闇』は「私」と「女」が10年ぶりの再会を果たし同棲生活を始めるものの、やがて別れるに至るプロセスを綴った物語である。
 10年前は「女」が日本を捨てる覚悟を抱きつつ、多くを語らずして「私」のもとを去った。だが、今度は「私」がベトナム情勢を伝えた小さな記事を「女」から示されたことが契機となり、ベトナムへ赴くことを決意する。立場は逆転していた。
 再会後の「私」は「女」との愛欲に耽ることはあるものの、人に会おうともしないし、外出すらもままならないほどの無為に陥っていた(唯一の例外は魚釣りに出かけたときぐらいである)。
 「女」は言葉もよく分からぬ土地で苦労を重ねた末、今では奨学金を得ながら博士論文を書いている。自分の部屋に日本人の男性が同棲していることは周囲も知っている。彼女にしてみれば、「私」が彼らと会ってくれることを大いに望んでいただろう。「たまには私の顔もたててよ」という「女」の言葉はそのことを端的に示している。それでも応じようとしない「私」に対して、「女」は「あなたは自分しか愛してないんだわ」「自分すら愛してないのかもしれない」と言い放つ。正鵠を射た言葉と言えよう。
 その「私」が、ベトナム情勢を伝える小さな記事を「女」から見せられ豹変した。コミュニスト軍がサイゴンに総攻撃をする可能性を示唆した記事に触発された「私」は、地元の通信社支局を訪れ、3年前に新聞社の臨時移動特派員としてもらった身分証明書や米軍の従軍許可証を提示して、情報収集に努める。
 その変貌ぶりに驚いた「女」は3年前に何があったのかを尋ねる。「私」が語ったのは自分のいた大隊が一つの戦闘で200人から17人に激減したという事実、自分がその17人の1人であるということだった。だが、この戦闘も地元の新聞ではたかだか数行の扱いだったのである。一種の極限状況を潜り抜けてしまった「私」にとって、その後の3年間が色褪せて見えてしまったのは致し方ない。「女」の示した小さな記事に「私」が殊更過剰な反応を示したのは、かつての光景が「私」の脳裏にまざまざと甦ったからである。
 「女どころか、あなたは自分すら愛してないのよ。だから危険をおかしちゃうの」という「女」の言葉は確かに正しい。しかし、もはや「私」をとどめる術は「女」にはなかった。無意識的に「お母さんみたいになりたくない」と「女」が漏らす場面がある。だが、彼女にはこの言葉を発したという自覚はなかった。
 「子どもがほしいわ、いまほしいわ」との「女」の言葉にじっとすることしかできなかった「私」。同棲生活をする中でいつしか「主婦」の姿を示していた「女」。
 再会したはずの二人がいずれ別れることは必然的なことだったのである。
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